確信のないまま生きていく。
私は、ずっと確信が欲しかったんです。
自分の存在に対しての確信。自分の仕事に対しての確信。自分の生き方に対しての確信。
言い換えれば、何か使命感みないなもの。
自分がこれをやって、間違いじゃないんだ!みたいな、自分に対しての自信とか、自分らしさ?のようなものかな。
ずっと、確信を得られるものを探していたのです。
何年もかけて、あーでもない、こーでもないって手探りでやってみて、なんか違う。そして、また壁にぶつかって、また探す。
ずっと、これの繰り返しでした。
そうして、私の確信は見つかったというと、全然、見つからなかったのです、結局笑。
あーぁ、私は結局、何者にもなれなかった。自分の存在に対しても自分の人生に対しても、何の確信も得られなかった。
だから、いっそこのまま確信のないまま、のらりくらりと生きていこうかな、なんて思い始めたところでした。
私、分かっちゃったんだけど『確固たる自分』なんて、多分、どこにもいない。きっと、誰もがそうなんだと思う。
『私はこういう人間だ!』なんて、この人間の小さな脳みそで考えて捉えられるほどの自分なんてきっと、幻想なんだよね、すべてが。
「確信」は本来、外にあるものではない
確信とは、外部から与えられる保証でも、誰かが押してくれるスタンプでもありません。確信は “プロセスを生き切るうちに、結果として生じるもの” です。
『やる前に確信をくれ』
『存在の正しさを証明してくれ』
このような欲求は、心理学的には『存在の依存的保証』を求めている状態と言えます。
しかし成熟のプロセスのある段階では、まさにあなたが感じたように
“確信は事前には与えられない”
“不確実さの中を歩くしかない”
という事実と向き合うしかなくなります。そこにあなたが気づいたのは、とても本質的です。
だそうです。AIに聞いてみました。
でも、おかしいな。私は、それなりの経験とプロセスがあるはずなんだけどな。
経験値とや情報とか、自分が、誰かや世の中に対してどれだけ役にたってきたかとかも、確信を得るためには、あんまり関係ないんだと思った。
私も含めた、ほとんどの人間は外部からの承認を得ることに依存しがちだけど、それはある意味で危険で、不安定な人生を築くことになる。
まぁでも、生きているうちに大多数の人間に尊敬されて、慕われて、死んだ後もなお、名前や功績が残り称えられる人も存在するから、そういう人の精神状態は、どうなっているのか少しは気になるよね。
今朝のニュースで、長嶋茂雄さんのお別れの会でたくさんの著名人がコメントを出していてシンプルに次元が違いすぎて、長嶋さんが聖人みたいに見えてすごいな〜って素直に思ったから。
話を戻すと、私は、確固たる自分でいたかった。確信を探し求めていた。
つねに一点を見つめてブレない精神とか意思がある。そんな自分になりたかったし、そんな自分を、みんなに見せたかった。
でも、私はもう気づいてしまった。多分、それは永遠に見つからない。確信を探し求めているうちは手に入れられない。きっと。
何の確信もなくても、それほどの自信がなくても、自分という存在や人生の全体像が見えていなくても、それでも私たちは、生きていかなければならないんだ。
自分にできることがどれだけ小さくて、微々たることでもそれでも、その小さなものを糧にして、生きていかなければならないんだよね。
あぁ、でもさこのことに気づいてポジティブな面もあるよ。
私のこれまでの、のらりくらりと生きてきた人生。無計画で、楽観的で、情緒不安定な日々。
そんな中でも、試行錯誤して、あれやこれやと制作したり仕事したりして生きてきた。
私はいつも気まぐれで、中途半端で、何者でもなくて、実態がなくてさ。そんな自分がずっと嫌だったんだ。だから、否定してきた。これじゃだめだ、このままじゃだめだと。
でもね、確信を得ようとするのをやめたら、これまでの自分でもいいって実はそんな私が正しかったのでは?とちょっと思えたんだよね。
確信がないまま生きていくって、とても怖いよね。でも、ある意味自由だね。
そうか、自由って確信がないんだ。だから、自由なのかもしれないね。でも、めっちゃ怖いよね。だって、何の確信もないんだもんね。
みんな自由を求めるけど、自由って確信がないから、やっぱり怖いよね。
でも、自由になるためには、確信を得ることから離れないといけないんだね。確信を得ることに、サヨナラしたら私は、きっと自由だ。じゃあ、今ここで言うよ。
さようなら、私がずっと欲しかったもの。また、どこかできっと会えるよね。その時まで、わたし、頑張るから。バイバイ👋
確信のない、幻想みたいな自分と一緒に生きていく。
𝙴𝚁𝙸𝙲𝙾

