父の自死、母との絶縁。そして見つけた私自身の価値

ERICO

『こんな取るに足らない私が、幸せになっていいのだろうか』


そう思っていることに、気付いた瞬間がありました。


なぜだろう。なぜ私は、そんなにも自分のことを卑下ひげしてしまっていたのか。その理由に、私はすぐに気がつきました。


そう。私が自分のことを『取るに足らない人間』だと思っていた理由は、私の両親でした。


私と両親との関係性が、時々、私の人生に暗い影を落とす。


好きなことをして、愛する人たちに囲まれて、不自由ふじゆうのない幸せな暮らしをしていても、ふとした瞬間に、彼らのことを思い出して、自分の心が、そこなし沼にしずんでいくような、そんな気持ちになるのです。


これまであまり語らなかった、私と両親のこと。


彼らとの関係、私に起きた出来事、今日はなんとなくだけど、書いてみようと思います。


私が今までの人生で抱えてきた苦しみ、悲しみ、深い葛藤。それを乗り越え、自分を愛するまでの長い物語になりますが、よかったら、読んでください。


《目次》

  1. 父の死を突っぱねた、19歳の私
  2. 自分を愛するために、母から逃げ出した
  3. 『私だけ幸せになるなんて許されない』という呪縛じゅばく
  4. 親の不幸を子供が背負う義務も責任も無い
  5. 私は、取るに足らない人間なんかじゃない
  6. おわりに
1

父の死を突っぱねた、19歳の私


私の父は、私が19歳の時に亡くなっています。


その当時、私は大学2年生でした。忘れもしない、あの日。


新学期が始まったばかりの4月。私は意気揚々いきようようと、大学に向かおうとしていました。


そんな中で、突然やってきた父の訃報ふほう。自死でした。


残された家族、みんな呆然ぼうぜんとして、(父方の)おばあちゃんは、泣きさけんでいた。もう、あの日のことを思い出したくもないけど、簡単に言うと、地獄だった。


当時、私が通っていた大学は、横浜の郊外にある女子大で、キラキラした女の子たちがたくさんいた、そんな大学。


大学に入る前に通っていた私の高校は、校則がきびしくて、窮屈きゅうくつでつまらない。そんな高校生活を、3年間も送っていたものだから、


そんな生活から解放されて、憧れの女子大生になった私の毎日は、それはもう楽しくてね。浮かれた気分で日々過ごしていたのです。


そんな中で、突然やってきた、父の死。


もちろん、当然のように父の死は悲しかった。


やり場のない気持ちが生まれたし、若かった私は、家族の突然の死に混乱もした。


だけど、私が一番に思ったのは、父を失って悲しいという気持ちよりも、『今の楽しい生活を邪魔されたくない』そんな気持ちでした。
   
    


気の合う女友達たち、優しくてかっこいい彼氏、いつもバカみたいなことをして、一緒にさわいでるサークルの仲間たち。


まだ若く幼い私にとっては、家族よりも大切なものがたくさんあった。そして、それさえあれば、もう十分な人生だと思っていた。


自分の父親が死んでしまったことよりも、そのことによって、自分の今の楽しい大学生活が送れなくなることのほうがよっぽど嫌だった。


だから、19歳だった私は、父親の死に対して、ふたをしたのです。


『別にこんなこと、大したことじゃない』


そんな風に、父の死をっぱねたのです。


父は、いい死に方じゃなかった。そしてお世辞にも父の生きた人生は『幸せな人生だったね』とは言えなかった。


そんな事実が、19歳だった私の人生に、最初の暗い影を落としたのです。


でも、その影の存在に気づくのは、父の死から、何十年もたってからでした。
   
      

2

自分を救うために、母から逃げ出した


私の母親について。


私の母は、今も健在けんざいだ。ありがたいことに、生きている。


でも、一方で残念なことに、私と母は関わっていない。そう、絶縁ぜつえんってやつだ。


もう、いつからだったのか忘れてしまたけど、6、7年前くらい前だったかな。


私と母の間に、どうやっても修復しゅうふくできないみぞができてしまった。


そのことで、私の心はこわれてしまう寸前すんぜんだった。


ギリギリのところでたもっていた線が切れて、大切にしていたものが、いっきにくずれ落ちていく。そんな感覚だったと思う。


でも、そんな中でも、私は必死に自分を守ろうとした。そして、決断したのです。


『もうこれ以上は、一緒にいられない』


それで、母親からのすべての連絡をったのです。電話番号も変えて、LINEもブロックした。


そうした私の突然の行動に当然、母もおどろいて、最初のうちは、あの手この手で連絡を取ろうとしてきた。


でも、私も必死だった。絶対に逃げなきゃ、そう強く思った。


そのうちに母も何かをさっしたのか、あるときをさかいに、一切連絡は来なくなった。
   
    

 
母親から見た私は多分だけど、『頼りないけど、優しい娘』そんな感じだったと思う。


20代の頃の私は、仕事を転々としていつもお金がなくて。そのせいで、母には色々と迷惑をかけてきた。私自身も、そんな自分にい目を感じていた。


だから、私が結婚して子供が生まれてそして、自分の仕事で独立して、経済的な余裕が出てきたときに


『これでやっと親孝行おやこうこうができる!』


そう思って、嬉しくなったのを覚えている。そして、育児と仕事に余裕が出てきてからは、自分のできる限りの親孝行をしたと思う。


海外旅行に連れていったり、誕生日にはブランド品をプレゼントしたり孫たちとの交流の時間も作ったり。


でも今思えば、それもあまり意味のないことだった。


なぜなら、私と母親とのいびつな関係性は今に始まったことじゃなくて、私が、物心がつくくらいの幼少期から、既にはじまっていたのだから。


そう、私の母親は、ちまたで言う『毒親』ってやつだ。


どんな風に毒親なのかは、ここで説明すると長くなるので今回は、割愛かつあいさせていただきます。
   
    


私は、小さい頃から母が好きじゃなかった、だけど、とても大好きだった。


愛していたし、愛して欲しかった。だけど、同時ににくんでもいた。世界で一番キライな人間でもあった。


この言葉の通り、なんというか、私と母の関係性はとてもゆがんでいて、そして矛盾むじゅんしたものでした。


それでも私は、母に幸せになって欲しかった。


その気持ちに、嘘はなかった。なぜなら、母が経験してきた、たくさんの苦労を知っていたから。


母に、父の死に負けて欲しくなかった。過去がどんなだったとしても、今から幸せになって欲しかった。


私たち家族は、きっとそうなれる。父の死を乗り越えられると信じていた。まだ、その時は。


そんな気持ちは、今思えば私のエゴでもあったけど。それでも私は、自分にできることのすべてを母にしてあげたかった。


でも、それがよくなかった。私は、母にくしすぎた。その分、見返みかえりを求めすぎていたのかもしれない。


『あなたのおかげで幸せよ』


そう言って欲しかった。そう言ってくれたら、私のそれまでの人生がむくわれていたかもしれない。


でも母は、目の前にある幸せには目もくれずに、他人が持っていたものをいつもうらやんでいた。


そして、いつも何かを批判していた。いつも何かに怒っていて、いつも何かとくらべていた。

   


そんな母に、私はうんざりもしていた。


けれども、そんな母親を幼少期から見てきた私は、母に幸せになってもらう事が、なぜか、自分の義務のように思っていた。


だから、母が不幸ふしあわせそうにネガティブな言葉を並べているとそれがまるで、すべて自分のせいのような気がしてしまっていた。


私が、どれだけ懸命になっても母が私を心からめたり、認めてくれることはなかった。


それどころか、常に私の”何か”を否定していた。


彼女はきっと何も考えずに、ただ思ったことを言っただけだろう。だけども私は、いつもみじめだった。


それはもう、言葉には言い表せないくらいに、とてつもなく、みじめだった。


『こんなに頑張ってきたのに、私の人生には何の価値もないのだろうか』


そんな風に、自分のこれまでの人生すべてを否定したくなるくらいに、いつも私はみじめでした。


私の心は、母の放つ何気ない言葉の積み重ねで、時間をかけて、ゆっくりとすさんでいきました。


だから、私は逃げ出したのです。


だって、もうこれ以上、みじめな自分になりたくなかったから。


私は、追い込まれた最後の最後で、自分を救う決断をした。私は母親を救うのをやめて、自分を救うことにしたです。


とても苦しい決断でした。それまでの人生で、一番大切にしてきたものを手放さないといけなかったから。


でも、母親から逃げ出したこと、何も後悔こうかいしていません。


だって、その決断は、私が生きてきた人生の中で、自分を愛するためにできた一番の大きな決断だったから。


だから、誰が何と言おうとも、まわりに批判されたとしても、私は、この選択をした自分を心底、ほこりに思っています。


絶縁、バンザイ!!

   
  

3

『私だけが幸せになるなんて許されない』という呪縛


私には2つ上の姉がいて、私と姉はとても仲が良いのです。


姉をかいして、母の話をたまに聞くのですが、母はなんだかんだで、楽しそうな人生を送っているみたい。


それはそれで、よかったなと、本心でそう思っています。


母が元気にしていると聞いて、ほっとする気持ちがある一方で、ふとした瞬間に、き上がってくる感情がありました。


『こんな取るに足らない私が、幸せになっていいのだろうか』


そんな、自分の内なる葛藤に気付いた時、真っ先に両親の顔が浮かぶのです。


あぁ、私はまだ彼らの人生の結末に対して、自責じせきの念を持っているんだな、と。


父は不幸な最期を迎えた。母とは結局、絶縁ぜつえん状態になってしまった。その事実が、私の中で、まだ重くのしかかっていたのです。
   



こんなことになってしまったのに私だけが幸せになるなんて、そんなこと、許されない。許されてはいけないんだ。


もしかしたら、2人を不幸にしてしまったのは、私がいるからかもしれない。すべて、私のせいかもしれない。


本当は私が生まれてこなければ、よかったのかもしれない。そうだったら、みんなもっと幸せになれたかもしれない。



私の心の中にある強烈きょうれつな葛藤は、そうまで思わせるほどに、私の心をむしばんでいました。


もうこれはある種の『呪い』だと私は思ってる。笑


いや、決して笑い事ではないんだけどね。笑い事にしてないと、やってられないよね。

4

親の不幸を子供が背負う義務も責任も無い


例え、親が不遇ふぐうな人生を生きてきたからといって、子供までもが、それを背負う義務も責任も無い。


分かってる。今ならそんなこと当たり前に分かります。


でも、私は幼かったし未熟でした。


だから、親が不幸なのであれば、自分も同じような人生や苦しみを背負わなければいけないと、無意識のうちに、思い込んでしまっていたのです。


過去から代々続く、呪いのような葛藤やしがらみに、いつのまにか、自分が飲み込まれていたんだと思います。


この葛藤を、もっと大げさに説明するとしたら、こんな感じでしょうか。

  • もし私が、過去を忘れてあっさり幸せになったら、父や母の苦しみは何だったのだろう。
  • 私だけが自由になって幸せになるなんて、許されない。だから私が、この不幸を受け継ぐべきなんだ。



そんなわけあるかよって、思うじゃない。


でも子供というのは幼い頃から、親の価値観を無意識に受け取っているんだよね。


親が不幸ふこうそうにしている姿を見続ければ、子供はそれを『当然のこと』と認識する。そして自分も同じように生きるべきだと、知らず知らずのうちに、思い込んでしまう。


心理学では、これを『世代間連鎖せだいかんれんさ』と呼ぶんだけど、何気ない一言でさえ、子供の心に深く刻まれて、大人になってからの思考や行動のパターンを作り出していく。


私はまさに、この『世代間連鎖せだいかんれんさ』を受け継いだパターンだったと思う。

    

5

私は取るに足らない人間なんかじゃない


このような理由から、自分が幸せになることに対して、ずっと抵抗ていこう罪悪感ざいあくかんがありました。


自分が何かを欲しいと思ったり、望む人生を生きると決めても、うまくいかなかったり、やっぱりは自分はダメだなんだって、自己否定に走ってしまうのです。


ずっと、同じパターンの現実を繰り返していることに気づいて、私は本当に危機感ききかんを持ちました。


今思えば、それに気づけただけでも、本当によかったと思います。


私はね、もうとにかく心底うんざりしていたんです。


何にうんざりしていたかというと、もうすでに終わった過去なのに、両親の幸せへの責任や、誰にも頼まれてない犠牲を背負い込んで、『私ってかわいそうでしょ』って顔して、メソメソして生きている自分自身に。


そんな自分を見続けるのに嫌気がさして、だから、絶対に自分を幸せにしてあげたかった。見せかけの幸せや愛なんてどうでもよかった。とにかく、必死でした。


そう思えるようになった理由の一つに、子供たちの存在がありました。


彼女たちを見ていると、本当にいとおしいし、幸せだと思えた。そして、底なしの勇気がいてくる。


彼女たちに、絶対に私と同じ想いをさせちゃいけない。この不幸の連鎖れんさは、ここで終わらせなければならない。そんな風に彼女たちの存在が、私の一番の原動力になっていました。


そこから私は、自分を否定したり、自分を幸せから遠ざけるような、たくさんの葛藤と向き合っていきました。
    

  • 父と母が不幸なのは私のせい
  • 父と母を幸せにできなかった自分はダメな自分
  • 不幸になるべき自分
  • 取るに足らない自分


毎日、自分のために時間を作って、内省ないせいをしながら、こういう葛藤を全部見つけて、癒やして、手放していきました。


両親から受け継いだと思われる信念や価値観も、すべて捨てました。



もちろん、一筋縄ひとすじなわではいかなかったです。長い時間がかかったし、本当に苦しかった。でも私は、決してあきらめなかった。


そうしたら、本当に少しずつだけど、私はちゃんと自分のことを理解できるようになりました。


自分の良い部分、素晴らしい部分が、どんどん見えてくるようになって、ちゃんと自分を好きになれて、大切にできるようになりました。


そして今、私はこう思ってる。


私は、取るに足らない人間なんかじゃない。


私はこれまでの人生で、ちゃんと自分にできる最大限の行動と選択をしてきました。


もちろん聖人君子せいじんくんしじゃないから、人を傷つけたり、嘘をついたり、裏切うらぎったり、そういうことだってありました。間違いもたくさんありました。


でも、それ以上に、たくさんの人を愛して、たくさんの優しさを持って、たくさんの人を幸せにしてきた。その自負じふが、今の私にはちゃんとあります。


私は幸せになるべき人だし、愛されるべき人だし、価値あるものを十分に手に入れていい。


今の私にとっては、もうこれがすべてです。


ここまで来るのに本当に時間がかかったけれど、苦しい時間の方が長かったけど。でも、それもまぁよしとします。


だって、これまでの苦しさや悲しみを忘れてしまうくらいの幸せが、この先に待ってると、そう確信しているから。


というか今が既に、その瞬間なんだ。私は今、とても幸せです。
   
   

6

おわりに


ここまでの、私の長い人生の物語を読んでいただき、本当にありがとうございます。


これまで、私は家族のこと、特に父と母のことを書いたり、言及することは、極力避きょくりょくさけてきました。


なぜなら、きっと母は、私が家族のこと、特に父のことを書いたり話したりすることを、嫌がるだろうから。


父が亡くなった時、姉が母に、こんなことを言われました。『お父さんのことは、誰にも言っちゃダメよ』


おそらく母にとって、父の死に方は、”恥ずべき死に方”だったのでしょう。


私は、母とはもう何年も会っていないけれど、母に苦しんで欲しいわけじゃないし、うらんでいるわけでもない。今でも、幸せになって欲しいと願っています。


今はもう、過去の様々なこと許して、父と母の娘であることを、誇りにも思っています。


だから、もし万が一、母が私の書いたものを目にしたときに、傷ついたり、怒らせたりするようなことは書かないでおこうと、ずっと心に決めていました。


けれども最近、家族のことやプライベートなことも、ちゃんと言葉にして書きたいという気持ちが、強くいてきたのです。


こうして、色々なことが重なって、私にとって初めての、本当にプライベートな家族のことをつづった記事を、勇気を出して書いてみました。

𝙴𝚁𝙸𝙲𝙾

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